تسجيل الدخول授業を終えた俺は、獅子寮の郵便受けに届いていた一通の封筒を手に、談話室へ戻った。
窓から差し込む夕方の光が、長机の上に積まれた教本を淡い金色に染めている。使い始めてまだ数日しか経っていない本の背には、もう何度も開いた跡がついていた。慣れない授業に疲れた学生たちは、椅子に深く腰かけたり、温かい飲み物を片手に今日の課題について話したりしている。
紙とインクの匂いに、誰かが淹れた薬草茶の香りが混じっていた。
けれど、俺は談話室の空気をほとんど感じていなかった。
目は、手の中の封筒に引きつけられていた。
俺の名前が、間違いなく書かれている。
寮の郵便受けを開けた瞬間から、胸の奥で鼓動が速くなっていた。今まで一度も手紙をくれなかった相手の顔が、なぜか真っ先に浮かんだ。
「ミナ……?」
声にした途端、期待が急に形を持った。
俺の居場所を知って、連絡をくれたのかもしれない。何も言わずにいなくなったことを謝る手紙かもしれない。あるいは、たった一言だけでも、元気だと知らせてくれたのかもしれない。
返事をどう書こう。
そんなことまで考えながら封筒を裏返し、俺は息を止めた。
差出人の欄に書かれていたのは、ミナの名前ではなかった。
ミナを引き取った里親の名前だった。
胸の高鳴りが、別のものへ変わる。
「どうした、ハヤト。郵便受けの前からずっと、その手紙とにらめっこしてるけど」
長椅子に座っていたテオが、開いていた教本から顔を上げた。その向かいでは、エマが小さな紙片に授業の要点を書き出している。
俺は二人のいる長机まで歩き、空いている椅子を引いた。
「ミナの里親からだ」
テオの表情から、疲れを隠すような笑みが消えた。
エマもペンを止める。
「以前、話していた女の子ね」
「ああ」
封筒の端に指をかけたものの、すぐには開けられなかった。
もし、中に望んでいない知らせが入っていたら。
その考えが頭をよぎる。けれど、開けずにいれば何も知ることができない。俺は浅く息を吸い、紙を傷つけないように封を切った。
便箋を探して指を差し入れる。
触れたのは、厚みのある一枚の紙だけだった。
「写真……?」
取り出したものを見て、テオが身を乗り出す。
手紙はなかった。
説明も、短い伝言さえも入っていない。
写真に写っていたのは、白い壁と淡い青色の窓が並ぶ大きな建物だった。正面には緩やかな階段があり、両脇に植えられた木々の向こうから、校内の渡り廊下が延びている。
入学してから何度か遠くに見かけた建物だ。
ルミエールアカデミーの医療棟。
指先が、写真の上で止まった。
なぜ、ミナの里親がこれを俺に送ってきた。
何の説明もなく、医療棟の写真だけを。
頭の中で答えにならない考えが重なり、気づけば言葉がこぼれていた。
「まさか、ミナはここに……?」
そうであってほしいという願いと、そうであってほしくないという恐怖が、同時に胸を締めつけた。
ここにいるなら、やっと会える。
けれど、医療棟にいるということは、何かの治療を受けている可能性がある。
行方が分からなくなってから、ミナが病に苦しんでいるという噂を何度も思い出した。確かめる方法がなく、ただの噂だと言い聞かせてきたものが、写真一枚で急に現実味を帯びてしまう。
「見せてもらってもいい?」
エマの声に、俺は黙って写真を渡した。
彼女は窓からの光に写真をかざし、建物をじっと確かめた。それから机の上の封筒と写真を並べ、差出人の欄へ目を落とす。
「これは確かに医療棟ね。差出人はミナの里親。中に入っていたのは、この写真だけ」
「だったら、ミナはここにいるんじゃないのか」
自分でも、答えを急いでいるのが分かった。
エマはすぐには否定しなかった。写真を机へ戻し、俺の顔を見てから静かに言う。
「いる可能性はあるわ。でも、写真だけでは断定できない。誰かに会いに来てほしいのかもしれないし、建物そのものに別の意味があるのかもしれない。今分かっているのは、差出人があなたに医療棟の写真を送ったことだけよ」
正しい言葉だった。
それでも、胸の内側に膨らんだ期待は簡単には収まらなかった。
「一枚だけじゃ、何も分からないな……」
「逆だろ」
テオが写真をのぞき込みながら、真剣な顔で言った。
「写真一枚しかないんじゃなくて、写真一枚も手がかりがある。昨日まで、どこを探せばいいのかも分からなかったんだろ。だったら今日は、昨日より一歩進んでる」
あまりにもテオらしい考え方に、俺は一瞬言葉を失った。
「一歩って言っても、ずいぶん小さいぞ」
「最初から十歩進もうとして転ぶよりいい。俺なんて昨日の課題、設問を読み間違えて三歩くらい後退したからな」
「それは今、比べることではないと思うけれど」
エマが淡々と言うと、テオは肩をすくめた。
「ハヤトの顔が少し戻ったから、比べた意味はあった」
そう言われて初めて、俺は奥歯を噛みしめていたことに気づいた。
胸の苦しさは消えていない。けれど、二人の声が、狭くなっていた視界を少しだけ広げてくれた。
「里親の家に連絡してみる」
俺は端末を取り出した。
以前使っていた連絡先は、消さずに残してある。何度か連絡しようとして、そのたびに迷い、結局かけられなかった番号だった。
もっと早く連絡していればよかったのではないか。
そんな後悔が込み上げる前に、俺は発信に触れた。
呼び出し音が談話室のざわめきの中で繰り返される。テオは隣に座ったまま口を閉ざし、エマも写真のそばに手を置いて待っていた。
やがて、通話がつながった。
「俺、ハヤト・キサラギです。そちらから手紙が届きました。ミナのことで聞きたいことがあります。あいつは今、どこにいるんですか」
返事はなかった。
遠くで何かが動く音も、人の声も聞こえない。ただ、通話が切れていないことを示す微かな気配だけがある。
「もしもし?」
俺が呼びかけると、短い沈黙のあと、困ったように息をためる音がした。
「ミナ様のことは、わたしからは言えません」
「待ってください。それだけでもいいんです。ミナは無事なんですか。この写真は――」
言い終える前に、通話が切れた。
耳元から音が消える。
俺は端末を下ろせないまま、暗くなった画面を見つめていた。
「切れたのか?」
テオの問いに、わずかにうなずく。
握った指から力が抜けなかった。
言えないとは、どういう意味だ。
知らないのではない。答えられないのでもなく、言えない。
それなら、ミナについて何か知っているはずだ。だが、写真を送ったのは里親なのに、なぜ家では何も話してくれない。
疑問ばかりが増えていく。
机の上の写真へ目を戻すと、白い医療棟が急に冷たい建物のように見えた。
もし、本当にあそこにミナがいるのなら。
俺の知らないところで、ずっと病に苦しんでいたのなら。
もっと早く探していれば、何かできたのではないか。里親の家へ何度も足を運んでいれば、連絡を諦めずにいれば、ミナを一人にせずに済んだのではないか。
呼吸が浅くなる。
脳裏に浮かんだのは、長い回想ではなかった。平気な顔をして無理を隠そうとするとき、ミナが少しだけ視線をそらす癖。俺を心配させまいとする、明るい声。
あのときも、俺は気づけていなかったのかもしれない。
「俺は……何をしてたんだ」
低く漏れた声が、やけに遠く聞こえた。
「ハヤト」
エマが名前を呼んだ。
俺は返事ができなかった。
「端末を置いて。壊れるほど強く握っているわ」
言われてようやく、指先が白くなっていることに気づいた。ゆっくり手を開き、端末を机に置く。指の関節が、遅れて痛みを訴えた。
エマは写真を俺の前へ戻した。
「不安になるのは当然よ。何も教えてもらえなかったのだから。でも、今の時点でミナが重い病に苦しんでいるとも、あなたが手遅れにしたとも決まっていない」
「けど、医療棟の写真が送られてきた」
「ええ。だから確かめるの」
彼女の指先が、写真の端を軽く押さえた。
「まだ何も分かっていないからこそ、今ある手がかりを一つずつ確かめるべきよ。自分を責めるのは、そのあとでも遅くない。少なくとも今は、責めるための事実すら足りていないわ」
「責めるのは、あとでも勧めないけどな」
テオが俺の隣で頬をかいた。
「エマの言う通り、考えても分からないことを全部悪い方へつなげるのはやめよう。写真の建物なら、この学校の中にある。海の向こうでも、知らない町でもない。歩いて行ける場所だ」
俺は医療棟の正面に写る階段を見た。
ここにミナがいるとは限らない。
けれど、ここに何かがある可能性は残っている。
「今から行く」
椅子を引いて立ち上がると、テオもすぐに腰を上げた。
「よし。じゃあ俺も行く」
「これは俺とミナのことだ。二人を巻き込む必要はない」
「ついさっきまで端末を握り潰しそうになってたやつを、一人で行かせると思うか?」
「潰してはいない」
「そこを反論できるなら、少しは大丈夫そうだな。でも、一緒に行くことに変わりはない」
テオは自分の教本を閉じ、机の端へ寄せた。軽い口調ではあったが、その目はまっすぐ俺を見ていた。
エマも紙片とペンをしまい、椅子から立つ。
「わたしも行くわ。写真を見た以上、もう無関係ではないもの」
「エマまで……」
「それに、焦っているあなたと、勢いで扉を全部開けそうなテオだけでは心配よ」
「俺まで危険人物に数えられてないか?」
「扉を開ける前に確認する役が必要だと言っているの」
いつもの調子で言葉を交わす二人を見ていると、固まっていた胸の奥が、わずかにほどけていった。
俺は一人ではない。
その事実が、今はありがたかった。
「ありがとう」
口にすると、テオは照れくさそうに鼻の下をこすった。
「礼はミナの手がかりを見つけてから、三人分まとめて聞く」
「三人分って、ずいぶん欲張るのね」
「一人一回だから普通だろ」
俺たちは談話室を出た。
廊下には夕方の光が長く伸び、授業を終えた学生たちの足音が重なっていた。壁にともり始めた淡い灯りが、磨かれた床に揺れている。
医療棟へ続く渡り廊下に入ると、風が吹き抜けた。
高い窓の向こうには、校舎の屋根と深い緑の庭が広がっている。その先に、写真と同じ白い建物の上部が見えた。
そこへ向かおうとしたとき、正面から歩いてきた人影が足を止めた。
蛇寮の制服を隙なく整えたマルクスだった。
彼は俺たち三人を順に見たあと、俺の手元へ視線を落とした。
「ずいぶん慌てているな、キサラギ」
「急いでる。道を空けてくれ」
「その写真は医療棟か」
俺は反射的に写真を胸元へ引いた。その動きだけで、マルクスは何かを察したらしい。細めた目が、俺の表情を探る。
「誰かいるのか?」
「いるかもしれない。それを確かめに行く」
「誰を」
一瞬迷ったが、隠している時間さえ惜しかった。
「ミナだ。俺にとって、妹みたいに大切なやつだ」
マルクスの眉がわずかに動く。
「確証は?」
「まだない。この写真が送られてきただけだ」
「写真一枚で、そこにいると信じたのか」
声には、隠そうともしない冷たさがあった。
「いると決めつけたわけじゃない。だから確かめに行くんだ」
「同じことだ。何の説明もない写真に、自分の望む答えを重ねている」
胸の奥を細い針で刺されたような痛みが走った。
「今、そんな言い方をする必要があるか?」
テオが一歩前へ出る。
「ハヤトは心配してるんだ。手がかりがあるなら確かめる。それの何が悪い」
「確かめることが悪いとは言っていない。だが、期待だけで突っ走る人間は、自分に都合の悪いものを見落とす」
「ハヤトは一人ではないわ」
エマが静かに言った。
「わたしたちも一緒に確認する。写真だけでミナがいるとは断定していないし、今できることを選んでいるだけよ」
マルクスはエマに目を向けたが、表情を変えなかった。
「なら、せいぜい冷静に見張ることだな」
再び、その視線が俺に突き刺さる。
「医療戦士に選ばれたからといって、自分なら誰でも救えると思っているんじゃないだろうな」
息が止まりかけた。
「そんなことは――」
「思っていないと言い切れるか?」
すぐに答えられなかった。
ミナが医療棟にいるかもしれないと思った瞬間、俺の中に浮かんだのは、会いたいという願いだけではなかった。
助けなければ。
俺なら助けられるかもしれない。
そう考えた。
けれど、今の俺には、十分な知識も経験もない。授業が始まって数日しか経っておらず、開いた教本の内容すら完全には理解できていない。
それでも、ミナが苦しんでいるなら何とかしたい。
その願いは、ただの思い上がりなのか。
「救いたいと願うことと、救えることは違う」
マルクスの声が渡り廊下に響く。
「肩書き一つで、その差まで消えたつもりになるな。そこに本当にその子がいたとして、お前に何ができる?」
「もういいだろ」
テオの声から、普段の軽さが消えた。
「何ができるか分からないからって、何もしない理由にはならない」
「できないことを認めずに近づけば、相手に余計な期待を持たせることもある」
「だから三人で確かめると言っているの」
エマは声を荒らげなかった。それでも、マルクスから視線をそらさない。
「あなたの言う通り、ハヤトには足りないものがあるかもしれない。わたしたちにもあるわ。でも、足りないことと、向き合わないことは同じではない」
マルクスは答えず、俺の横を通り過ぎた。
数歩進んだところで、背を向けたまま足を止める。
「現実を見てからも、同じことが言えるといいな」
硬い足音が遠ざかっていった。
俺はその場に立ち尽くしていた。
マルクスを追いかけて言い返すことはできなかった。
悔しいからではない。
あいつの言葉が、俺自身の不安とあまりにもよく似ていたからだ。
本当にミナがいたとして、俺に何ができる。
会えたところで、何も救えないかもしれない。医療戦士に選ばれたという事実だけでは、目の前の苦しみを消すことなどできない。
「ハヤト」
テオが隣に立つ。
「マルクスの言葉を全部背負うなよ」
「でも、間違ってはいない。俺には、まだ何もない」
「何もない人は、あんな顔で誰かを探さない」
テオは医療棟の方角を見た。
「知識や力が足りないなら、これから増やせばいい。今日すぐ全部できる必要はないだろ」
反対側では、エマが写真の端をそっと整えてくれた。
「今のあなたにできることは、事実を確かめること。そして、分からないことを分からないままにしないことよ」
俺は二人の顔を見た。
テオもエマも、俺なら必ず救えるとは言わなかった。簡単に大丈夫だとも言わなかった。
それでも、そばにいてくれる。
足りない俺を置き去りにせず、一緒に進もうとしてくれている。
俺は写真を握り直した。
紙を折らないように、今度は力を込めすぎずに。
自分に何ができるのかは、まだ分からない。医療棟にミナがいるのかさえ分からない。
それでも、分からないことを理由に立ち止まりたくなかった。
救えると信じ込むのではなく、救うために必要なものを一つずつ見つけていく。足りない知識があるなら学ぶ。力が足りないなら身につける。誰かの助けが必要なら、一人で抱え込まずに手を借りる。
そして、ミナがどこにいても、苦しんでいても、俺だけは諦めない。
渡り廊下を抜ける風の中で、俺は写真の向こうにいるかもしれないミナへ、届くはずのない言葉を静かに告げた。
「ミナ、マルクスがなんと言おうとお前は俺が絶対に助ける」
今話では、ハヤトがついにミナの行方に接近、「救いたい」気持ちと、「救えるのか」という葛藤に悩みます。今回もマルクスがハヤトに嫌がらせします。少しでもおもしろいと思われましたら評価、ブクマ、レビュー頂けますと泣いて喜びます。
「やって……ません」 喉の奥に張りついた息を、声と一緒に無理やり押し出した。 視界の端では、白い霞がゆっくりと渦を巻いている。円形に並んだ机も、その向こうに立つ生徒たちも、薄い膜を隔てたように輪郭がぼやけていた。息を吸っても胸の途中で止まり、次の呼吸へうまくつながらない。額から流れた汗が頬を伝い、顎の先から答案用紙へ落ちた。 机の縁をつかむ指先が震えていた。 それでも、俺は教授から目を逸らさなかった。「そんな状態だからカンニングした。違うか!」 教授の鋭い声が、広い試験会場を震わせる。 胸の奥を締めつける圧迫感よりも、その言葉のほうが深く突き刺さった。 身体が思うように動かないことと、心まで折れることは同じではない。 俺は椅子の肘掛けを押し、立ち上がろうとした。膝に力が入らず、椅子の脚が床を大きく擦る。上半身が傾いたが、机へ手をつき、どうにか踏みとどまった。 白い霞の中央に、教授の険しい顔を捉える。「俺は……やってません。体調が悪いからって、不正に逃げたりしない」 声は掠れていた。呼吸も途切れていた。 それでも、言葉だけは揺らがせなかった。 会場のあちこちで交わされていた囁きが、わずかに静まる。 教授の横では、マルクスが偽の答案用紙を掲げていた。冷たく整った顔には、勝ち誇った笑みも、焦りも浮かんでいない。ただ、折り畳まれた紙を挟む指先にだけ、わずかに力がこもっていた。「口では何とでも言える。現に、お前の袖から――」「待ってください」 マルクスの言葉を遮った声は、会場の外周に近い席から聞こえた。 鹿寮の生徒が一人、静かに立ち上がっている。その手には小型の撮影端末が握られていた。 霞む視界を細めた瞬間、俺はその生徒を思い出した。 廊下や講義室で、何度か俺へカメラを向けていた人物だ。俺が視線を返すと、近づいてくるでも話しかけるでもなく、端末を下ろして人混みの向こうへ消えていた。 鹿寮の生徒は名乗らず、教授の前まで歩いていった。「これを確認してください」 差し出された端末を、教授は険しい表情のまま受け取った。 やがて、試験会場正面の大型表示板に映像が映し出される。 映っているのは、試験が始まって間もない会場だった。 画面の中央付近に、机へ向かう俺の姿がある。ペンを握る手はすでに震え、何度か目元を押さえていた。その斜め後ろ
「なんの騒ぎだ!」 張り詰めた空気を切り裂くような声が、医療棟の廊下に響き渡った。 床を打つ靴音が近づいてくる。俺は両腕を広げたまま、ミナとマルクスの間に立っていた。 胸の奥が狭い。息を吸っても、必要な量の空気が入ってこない。視界は薄い水膜に覆われ、窓から差し込む昼の光が白く滲んでいる。それでも、ミナへ伸ばされたマルクスの手と、その冷たい眼差しだけは見失わなかった。 背後から、ミナの浅い呼吸が聞こえる。 守らなければ。 その思いが、震えかけた膝を床へつかせなかった。 駆けつけた教授は、俺たちの顔を順に見た。マルクスの伸ばした手、進路を塞ぐ蛇寮の生徒たち、その前に立つ俺、検査室の扉を背にしたミナ。短い沈黙の間に、目の前の状況を正確に読み取っていく。「ミナ、何があった?」 教授に尋ねられ、ミナは胸元へ添えていた手をゆっくり下ろした。顔色は青白い。けれど、俯くことなく、自分の言葉で答えた。「検査室へ行こうとしたら、マルクスが前に立って……退いてほしいと何度も言いました。でも、聞いてくれませんでした」「触れられたか?」「いいえ。ハヤトが間に入ってくれたから」 その声には微かな震えが残っていた。それでもミナの瞳は逃げず、マルクスへ向けられている。 教授の表情が険しくなった。「マルクス・ヴェルナー! これはどういうことだ! 入院中の未成年患者に詰め寄り、本人の拒絶を無視して接触を強要しようとした。蛇寮を十点減点する!」 廊下の空気が、一瞬で凍りついた。 取り巻きたちが互いの顔を見る。四寮の得点争いが激しさを増している今、十点は小さな処分ではない。しかも獅子寮と蛇寮の差を大きく変える減点だ。「十点ですと?」 マルクスは声を荒らげなかった。 白い指先をゆっくり引き戻し、制服の袖口を整える。その動作には、自分が叱責される側であることなど受け入れていない傲慢さが滲んでいた。「俺は彼女の状態を確認しようとしただけです。医療を学ぶ者として、患者の症状に関心を持つのは当然でしょう」「本人が拒んでいる。それだけで十分だ」「病気で不安定になっている者の言葉を、すべて正しいと判断するのですか?」 ミナの肩が小さく揺れた。 俺の胸の奥で怒りが熱を持つ。病気を理由に、ミナの意思まで曖昧なものとして扱う。その言葉だけは聞き流せなかった。 だが、口を開く
「本当に行くつもりなのか?」 テオの声が、朝の獅子寮談話室に落ちた。 長い窓から差し込む光はまだ淡く、磨かれた床の上をゆっくりと伸びていた。暖炉には昨夜の火の名残がわずかに赤く残り、焼きたてのパンと紅茶、古い木製家具の匂いが混ざっている。 いつもなら心を落ち着かせてくれる朝の匂いだった。 けれど、今の俺には、目の前の光景すらまともに見えていなかった。 窓も机も椅子も、輪郭が水に溶けたように揺らいでいる。正面に立っているテオの顔も、髪の色と制服の形でかろうじて見分けられるだけだ。視界の端には白い靄がかかり、ときおり光の粒がちらついた。「行くよ」 俺はそう答え、制服の袖口へ手を伸ばした。 小さなボタンを留めようとしても、指先に力が入らない。震える親指と人差し指の間から、ボタンが何度も逃げていく。三度目に爪が布をかすったところで、とうとう手を下ろした。 ただそれだけの動作で、呼吸が乱れていた。 胸の奥へ冷たい布を詰め込まれたように、深く息を吸えない。浅い呼吸を何度も繰り返しているうちに、首筋へ汗が浮かんだ。「無理だろ、それ」 テオは俺の前まで来ると、顔をのぞき込んだ。「顔色、朝の壁より白いぞ。今日は休め。講義の内容なら俺が聞いてくる」「お前、昨日の講義で半分寝てただろ」「あれは目を閉じて集中してたんだ」「寝てたわよ」 ソファの向かい側で、エマが冷静に言った。 彼女は湯気の立つカップを机へ置き、俺のそばまで来た。ひんやりした指が手首へ触れる。視界がぼやけていても、彼女の表情が険しくなったことは、わずかに止まった呼吸でわかった。「ハヤト、手を握ってみて」 言われたとおりに指を曲げる。 けれど、エマの手を包むどころか、指先が掌へ触れる前に震え始めた。「昨日より悪くなってる」「まだ歩けるよ」「歩けるかどうかを聞いてるんじゃないわ。視界は?」「少し、ぼやけてる」「少し?」 エマの声が低くなった。 俺は答えず、窓の方を見た。外に木々があることはわかる。だが、枝も葉も一つの緑色の塊に見えた。「……テオの顔が、ほとんど見えない」「俺のこの整った顔が見えないなんて重症だな」「そこで冗談を言わないの」 エマに叱られ、テオは口を閉じた。それでも俺の肩へ置かれた手には、普段の気楽さとは違う強い力が込められていた。「部屋に戻ろう、ハ
「講義を抜けるったって、どうやって抜けるんだよ」 俺が声を潜めると、テオは待っていましたとばかりに身を乗り出した。 講義前の獅子寮の談話室は、いつになく騒がしい。長机を囲んで課題を見せ合う声に、教本の紙をめくる音が重なっている。大きな窓から差し込む朝の光が、使い込まれた木製家具の表面を柔らかく照らしていた。温かい茶と焼いたパン、それに古い木の匂いが混ざり合っている。「俺がハヤトに変装して講義受けるぜ!」 胸を張ったテオの宣言に、俺は言葉を失った。 向かいに座るエマは、持ち上げかけたカップを静かに置いた。「いつも通り斜め上ね」「待て。見た目も声も違うだろ」「髪の色は近い。背丈もほとんど同じ。制服を同じように着れば、後ろから見ただけじゃ分からないって」「講義は後ろ姿だけで受けるものじゃない」「もっと現実を見なさい、テオ」 俺とエマから同時に否定されても、テオは少しもひるまなかった。「でも、ミナの様子が心配なんだろ? 面会時間まで待ってたら、今日の講義が全部終わっちまう。ハヤトの顔に、俺は今すぐ行きたいですって書いてあるぜ」 思わず頬へ手を当てそうになり、途中で止めた。そんなものが本当に書いてあるはずはない。それでも、否定の言葉は出てこなかった。 エマが俺を見つめる。厳しさの奥に、わずかな気遣いを含んだ目だった。「昨日、あなたの力でミナの光の病の進行は遅くなった。でも、完治したわけではないわ」「ああ。分かってる」「さらに治療を進めるには、あなたが医療戦士の力を安定させる必要がある。それに、光の病そのものについても研究を重ねないといけない。焦って力を使えば、何が起こるか分からないのよ」 冷静な言葉が胸に刺さる。正しいからこそ、反論できなかった。「それでも、顔を見ておきたいんだ」 自分でも驚くほど低い声が出た。「昨日より苦しくなっていないか。熱は下がったのか。ちゃんと眠れたのか。それだけ確かめたら戻る」「そう言って、あなたは放っておけなくなるでしょうね」 エマは小さく息を吐いた。けれど、拒むように教本を閉じるのではなく、膝の上から一冊のノートを取り上げた。「仕方ないわね。今回だけよ」「さすがエマ!」「喜ぶのは早いわ。テオ、あなたが解剖学の講義で指名されたら、この計画はそこで終わりだから」「俺の知識を甘く見るなよ。骨はだい
写真を制服の内ポケットへしまうと、俺は獅子寮の談話室を飛び出した。 重い扉が閉じる音を背中に聞いた瞬間、足が勝手に速くなる。 午後の授業を終えた学生たちが行き交う廊下を、テオとエマが追ってきた。開いたままの教本を抱えて歩く者、実習で使った薬草籠を提げた者、寮対抗戦の話で盛り上がっている者。いつもなら耳に入るはずの声が、今日は厚いガラス越しに聞いているように遠かった。 頭の中には、医療棟のことしかない。 あそこに、ミナがいるかもしれない。 その可能性に追いつこうとするように、俺の足はさらに速くなった。「ハヤト、教本!」 テオの声と同時に、脇へ挟んでいた教本が滑り落ちた。 床へぶつかる寸前で、テオが片手を伸ばして受け止める。勢いよく屈んだせいで、彼が抱えていた自分の教本まで傾いた。「あ……悪い」「いいって。今のハヤトに持たせたら、医療棟へ着くまでに全部落としそうだし」「自分で持てる」 手を伸ばしたが、テオは教本を返さなかった。「持てるのと、ちゃんと持っていられるのは別だろ」 いつもなら言い返していたかもしれない。だが今は、その時間さえ惜しかった。 俺が再び歩き出すと、エマが隣へ並んだ。彼女の歩調は落ち着いていたが、決して遅くはない。俺が走り出さないぎりぎりの速さに合わせている。「ハヤト。一度、呼吸を整えて」「平気だ」「平気な人は、そんなふうに肩で息をしないわ」 言われて初めて、胸が苦しいほど上下していることに気づいた。 まだ医療棟へ着いてもいない。階段を駆け上がったわけでもない。それなのに、細い紐で喉を締められたように息が通らなかった。 ミナに会えるかもしれないという期待。 もう手遅れかもしれないという恐怖。 二つの感情が胸の中でぶつかり合い、心臓を両側から握り潰そうとしている。「落ち着いている時間なんてない」「急ぐことと、何も見えなくなることは違うわ」 エマは俺を止めなかった。「医療棟へ入ったら、あなたが話をしなくてはいけない場面もある。今のままでは、自分の名前を伝えるだけでも息が切れるわ」 俺は唇を噛み、鼻から深く息を吸った。 胸の奥まで届かない。それでも、二度、三度と繰り返すうちに、喉を塞いでいたものが少しだけ緩んだ。「昨日まで何も分からなかったんだ」 歩きながら、俺は呟いた。「探しても、手紙を送っ
授業を終えた俺は、獅子寮の郵便受けに届いていた一通の封筒を手に、談話室へ戻った。 窓から差し込む夕方の光が、長机の上に積まれた教本を淡い金色に染めている。使い始めてまだ数日しか経っていない本の背には、もう何度も開いた跡がついていた。慣れない授業に疲れた学生たちは、椅子に深く腰かけたり、温かい飲み物を片手に今日の課題について話したりしている。 紙とインクの匂いに、誰かが淹れた薬草茶の香りが混じっていた。 けれど、俺は談話室の空気をほとんど感じていなかった。 目は、手の中の封筒に引きつけられていた。 俺の名前が、間違いなく書かれている。 寮の郵便受けを開けた瞬間から、胸の奥で鼓動が速くなっていた。今まで一度も手紙をくれなかった相手の顔が、なぜか真っ先に浮かんだ。「ミナ……?」 声にした途端、期待が急に形を持った。 俺の居場所を知って、連絡をくれたのかもしれない。何も言わずにいなくなったことを謝る手紙かもしれない。あるいは、たった一言だけでも、元気だと知らせてくれたのかもしれない。 返事をどう書こう。 そんなことまで考えながら封筒を裏返し、俺は息を止めた。 差出人の欄に書かれていたのは、ミナの名前ではなかった。 ミナを引き取った里親の名前だった。 胸の高鳴りが、別のものへ変わる。「どうした、ハヤト。郵便受けの前からずっと、その手紙とにらめっこしてるけど」 長椅子に座っていたテオが、開いていた教本から顔を上げた。その向かいでは、エマが小さな紙片に授業の要点を書き出している。 俺は二人のいる長机まで歩き、空いている椅子を引いた。「ミナの里親からだ」 テオの表情から、疲れを隠すような笑みが消えた。 エマもペンを止める。「以前、話していた女の子ね」「ああ」 封筒の端に指をかけたものの、すぐには開けられなかった。 もし、中に望んでいない知らせが入っていたら。 その考えが頭をよぎる。けれど、開けずにいれば何も知ることができない。俺は浅く息を吸い、紙を傷つけないように封を切った。 便箋を探して指を差し入れる。 触れたのは、厚みのある一枚の紙だけだった。「写真……?」 取り出したものを見て、テオが身を乗り出す。 手紙はなかった。 説明も、短い伝言さえも入っていない。 写真に写っていたのは、白い壁と淡い青色の窓が並ぶ大きな建







