LOGIN授業を終えた俺は、獅子寮の郵便受けに届いていた一通の封筒を手に、談話室へ戻った。
窓から差し込む夕方の光が、長机の上に積まれた教本を淡い金色に染めている。使い始めてまだ数日しか経っていない本の背には、もう何度も開いた跡がついていた。慣れない授業に疲れた学生たちは、椅子に深く腰かけたり、温かい飲み物を片手に今日の課題について話したりしている。
紙とインクの匂いに、誰かが淹れた薬草茶の香りが混じっていた。
けれど、俺は談話室の空気をほとんど感じていなかった。
目は、手の中の封筒に引きつけられていた。
俺の名前が、間違いなく書かれている。
寮の郵便受けを開けた瞬間から、胸の奥で鼓動が速くなっていた。今まで一度も手紙をくれなかった相手の顔が、なぜか真っ先に浮かんだ。
「ミナ……?」
声にした途端、期待が急に形を持った。
俺の居場所を知って、連絡をくれたのかもしれない。何も言わずにいなくなったことを謝る手紙かもしれない。あるいは、たった一言だけでも、元気だと知らせてくれたのかもしれない。
返事をどう書こう。
そんなことまで考えながら封筒を裏返し、俺は息を止めた。
差出人の欄に書かれていたのは、ミナの名前ではなかった。
ミナを引き取った里親の名前だった。
胸の高鳴りが、別のものへ変わる。
「どうした、ハヤト。郵便受けの前からずっと、その手紙とにらめっこしてるけど」
長椅子に座っていたテオが、開いていた教本から顔を上げた。その向かいでは、エマが小さな紙片に授業の要点を書き出している。
俺は二人のいる長机まで歩き、空いている椅子を引いた。
「ミナの里親からだ」
テオの表情から、疲れを隠すような笑みが消えた。
エマもペンを止める。
「以前、話していた女の子ね」
「ああ」
封筒の端に指をかけたものの、すぐには開けられなかった。
もし、中に望んでいない知らせが入っていたら。
その考えが頭をよぎる。けれど、開けずにいれば何も知ることができない。俺は浅く息を吸い、紙を傷つけないように封を切った。
便箋を探して指を差し入れる。
触れたのは、厚みのある一枚の紙だけだった。
「写真……?」
取り出したものを見て、テオが身を乗り出す。
手紙はなかった。
説明も、短い伝言さえも入っていない。
写真に写っていたのは、白い壁と淡い青色の窓が並ぶ大きな建物だった。正面には緩やかな階段があり、両脇に植えられた木々の向こうから、校内の渡り廊下が延びている。
入学してから何度か遠くに見かけた建物だ。
ルミエールアカデミーの医療棟。
指先が、写真の上で止まった。
なぜ、ミナの里親がこれを俺に送ってきた。
何の説明もなく、医療棟の写真だけを。
頭の中で答えにならない考えが重なり、気づけば言葉がこぼれていた。
「まさか、ミナはここに……?」
そうであってほしいという願いと、そうであってほしくないという恐怖が、同時に胸を締めつけた。
ここにいるなら、やっと会える。
けれど、医療棟にいるということは、何かの治療を受けている可能性がある。
行方が分からなくなってから、ミナが病に苦しんでいるという噂を何度も思い出した。確かめる方法がなく、ただの噂だと言い聞かせてきたものが、写真一枚で急に現実味を帯びてしまう。
「見せてもらってもいい?」
エマの声に、俺は黙って写真を渡した。
彼女は窓からの光に写真をかざし、建物をじっと確かめた。それから机の上の封筒と写真を並べ、差出人の欄へ目を落とす。
「これは確かに医療棟ね。差出人はミナの里親。中に入っていたのは、この写真だけ」
「だったら、ミナはここにいるんじゃないのか」
自分でも、答えを急いでいるのが分かった。
エマはすぐには否定しなかった。写真を机へ戻し、俺の顔を見てから静かに言う。
「いる可能性はあるわ。でも、写真だけでは断定できない。誰かに会いに来てほしいのかもしれないし、建物そのものに別の意味があるのかもしれない。今分かっているのは、差出人があなたに医療棟の写真を送ったことだけよ」
正しい言葉だった。
それでも、胸の内側に膨らんだ期待は簡単には収まらなかった。
「一枚だけじゃ、何も分からないな……」
「逆だろ」
テオが写真をのぞき込みながら、真剣な顔で言った。
「写真一枚しかないんじゃなくて、写真一枚も手がかりがある。昨日まで、どこを探せばいいのかも分からなかったんだろ。だったら今日は、昨日より一歩進んでる」
あまりにもテオらしい考え方に、俺は一瞬言葉を失った。
「一歩って言っても、ずいぶん小さいぞ」
「最初から十歩進もうとして転ぶよりいい。俺なんて昨日の課題、設問を読み間違えて三歩くらい後退したからな」
「それは今、比べることではないと思うけれど」
エマが淡々と言うと、テオは肩をすくめた。
「ハヤトの顔が少し戻ったから、比べた意味はあった」
そう言われて初めて、俺は奥歯を噛みしめていたことに気づいた。
胸の苦しさは消えていない。けれど、二人の声が、狭くなっていた視界を少しだけ広げてくれた。
「里親の家に連絡してみる」
俺は端末を取り出した。
以前使っていた連絡先は、消さずに残してある。何度か連絡しようとして、そのたびに迷い、結局かけられなかった番号だった。
もっと早く連絡していればよかったのではないか。
そんな後悔が込み上げる前に、俺は発信に触れた。
呼び出し音が談話室のざわめきの中で繰り返される。テオは隣に座ったまま口を閉ざし、エマも写真のそばに手を置いて待っていた。
やがて、通話がつながった。
「俺、ハヤト・キサラギです。そちらから手紙が届きました。ミナのことで聞きたいことがあります。あいつは今、どこにいるんですか」
返事はなかった。
遠くで何かが動く音も、人の声も聞こえない。ただ、通話が切れていないことを示す微かな気配だけがある。
「もしもし?」
俺が呼びかけると、短い沈黙のあと、困ったように息をためる音がした。
「ミナ様のことは、わたしからは言えません」
「待ってください。それだけでもいいんです。ミナは無事なんですか。この写真は――」
言い終える前に、通話が切れた。
耳元から音が消える。
俺は端末を下ろせないまま、暗くなった画面を見つめていた。
「切れたのか?」
テオの問いに、わずかにうなずく。
握った指から力が抜けなかった。
言えないとは、どういう意味だ。
知らないのではない。答えられないのでもなく、言えない。
それなら、ミナについて何か知っているはずだ。だが、写真を送ったのは里親なのに、なぜ家では何も話してくれない。
疑問ばかりが増えていく。
机の上の写真へ目を戻すと、白い医療棟が急に冷たい建物のように見えた。
もし、本当にあそこにミナがいるのなら。
俺の知らないところで、ずっと病に苦しんでいたのなら。
もっと早く探していれば、何かできたのではないか。里親の家へ何度も足を運んでいれば、連絡を諦めずにいれば、ミナを一人にせずに済んだのではないか。
呼吸が浅くなる。
脳裏に浮かんだのは、長い回想ではなかった。平気な顔をして無理を隠そうとするとき、ミナが少しだけ視線をそらす癖。俺を心配させまいとする、明るい声。
あのときも、俺は気づけていなかったのかもしれない。
「俺は……何をしてたんだ」
低く漏れた声が、やけに遠く聞こえた。
「ハヤト」
エマが名前を呼んだ。
俺は返事ができなかった。
「端末を置いて。壊れるほど強く握っているわ」
言われてようやく、指先が白くなっていることに気づいた。ゆっくり手を開き、端末を机に置く。指の関節が、遅れて痛みを訴えた。
エマは写真を俺の前へ戻した。
「不安になるのは当然よ。何も教えてもらえなかったのだから。でも、今の時点でミナが重い病に苦しんでいるとも、あなたが手遅れにしたとも決まっていない」
「けど、医療棟の写真が送られてきた」
「ええ。だから確かめるの」
彼女の指先が、写真の端を軽く押さえた。
「まだ何も分かっていないからこそ、今ある手がかりを一つずつ確かめるべきよ。自分を責めるのは、そのあとでも遅くない。少なくとも今は、責めるための事実すら足りていないわ」
「責めるのは、あとでも勧めないけどな」
テオが俺の隣で頬をかいた。
「エマの言う通り、考えても分からないことを全部悪い方へつなげるのはやめよう。写真の建物なら、この学校の中にある。海の向こうでも、知らない町でもない。歩いて行ける場所だ」
俺は医療棟の正面に写る階段を見た。
ここにミナがいるとは限らない。
けれど、ここに何かがある可能性は残っている。
「今から行く」
椅子を引いて立ち上がると、テオもすぐに腰を上げた。
「よし。じゃあ俺も行く」
「これは俺とミナのことだ。二人を巻き込む必要はない」
「ついさっきまで端末を握り潰しそうになってたやつを、一人で行かせると思うか?」
「潰してはいない」
「そこを反論できるなら、少しは大丈夫そうだな。でも、一緒に行くことに変わりはない」
テオは自分の教本を閉じ、机の端へ寄せた。軽い口調ではあったが、その目はまっすぐ俺を見ていた。
エマも紙片とペンをしまい、椅子から立つ。
「わたしも行くわ。写真を見た以上、もう無関係ではないもの」
「エマまで……」
「それに、焦っているあなたと、勢いで扉を全部開けそうなテオだけでは心配よ」
「俺まで危険人物に数えられてないか?」
「扉を開ける前に確認する役が必要だと言っているの」
いつもの調子で言葉を交わす二人を見ていると、固まっていた胸の奥が、わずかにほどけていった。
俺は一人ではない。
その事実が、今はありがたかった。
「ありがとう」
口にすると、テオは照れくさそうに鼻の下をこすった。
「礼はミナの手がかりを見つけてから、三人分まとめて聞く」
「三人分って、ずいぶん欲張るのね」
「一人一回だから普通だろ」
俺たちは談話室を出た。
廊下には夕方の光が長く伸び、授業を終えた学生たちの足音が重なっていた。壁にともり始めた淡い灯りが、磨かれた床に揺れている。
医療棟へ続く渡り廊下に入ると、風が吹き抜けた。
高い窓の向こうには、校舎の屋根と深い緑の庭が広がっている。その先に、写真と同じ白い建物の上部が見えた。
そこへ向かおうとしたとき、正面から歩いてきた人影が足を止めた。
蛇寮の制服を隙なく整えたマルクスだった。
彼は俺たち三人を順に見たあと、俺の手元へ視線を落とした。
「ずいぶん慌てているな、キサラギ」
「急いでる。道を空けてくれ」
「その写真は医療棟か」
俺は反射的に写真を胸元へ引いた。その動きだけで、マルクスは何かを察したらしい。細めた目が、俺の表情を探る。
「誰かいるのか?」
「いるかもしれない。それを確かめに行く」
「誰を」
一瞬迷ったが、隠している時間さえ惜しかった。
「ミナだ。俺にとって、妹みたいに大切なやつだ」
マルクスの眉がわずかに動く。
「確証は?」
「まだない。この写真が送られてきただけだ」
「写真一枚で、そこにいると信じたのか」
声には、隠そうともしない冷たさがあった。
「いると決めつけたわけじゃない。だから確かめに行くんだ」
「同じことだ。何の説明もない写真に、自分の望む答えを重ねている」
胸の奥を細い針で刺されたような痛みが走った。
「今、そんな言い方をする必要があるか?」
テオが一歩前へ出る。
「ハヤトは心配してるんだ。手がかりがあるなら確かめる。それの何が悪い」
「確かめることが悪いとは言っていない。だが、期待だけで突っ走る人間は、自分に都合の悪いものを見落とす」
「ハヤトは一人ではないわ」
エマが静かに言った。
「わたしたちも一緒に確認する。写真だけでミナがいるとは断定していないし、今できることを選んでいるだけよ」
マルクスはエマに目を向けたが、表情を変えなかった。
「なら、せいぜい冷静に見張ることだな」
再び、その視線が俺に突き刺さる。
「医療戦士に選ばれたからといって、自分なら誰でも救えると思っているんじゃないだろうな」
息が止まりかけた。
「そんなことは――」
「思っていないと言い切れるか?」
すぐに答えられなかった。
ミナが医療棟にいるかもしれないと思った瞬間、俺の中に浮かんだのは、会いたいという願いだけではなかった。
助けなければ。
俺なら助けられるかもしれない。
そう考えた。
けれど、今の俺には、十分な知識も経験もない。授業が始まって数日しか経っておらず、開いた教本の内容すら完全には理解できていない。
それでも、ミナが苦しんでいるなら何とかしたい。
その願いは、ただの思い上がりなのか。
「救いたいと願うことと、救えることは違う」
マルクスの声が渡り廊下に響く。
「肩書き一つで、その差まで消えたつもりになるな。そこに本当にその子がいたとして、お前に何ができる?」
「もういいだろ」
テオの声から、普段の軽さが消えた。
「何ができるか分からないからって、何もしない理由にはならない」
「できないことを認めずに近づけば、相手に余計な期待を持たせることもある」
「だから三人で確かめると言っているの」
エマは声を荒らげなかった。それでも、マルクスから視線をそらさない。
「あなたの言う通り、ハヤトには足りないものがあるかもしれない。わたしたちにもあるわ。でも、足りないことと、向き合わないことは同じではない」
マルクスは答えず、俺の横を通り過ぎた。
数歩進んだところで、背を向けたまま足を止める。
「現実を見てからも、同じことが言えるといいな」
硬い足音が遠ざかっていった。
俺はその場に立ち尽くしていた。
マルクスを追いかけて言い返すことはできなかった。
悔しいからではない。
あいつの言葉が、俺自身の不安とあまりにもよく似ていたからだ。
本当にミナがいたとして、俺に何ができる。
会えたところで、何も救えないかもしれない。医療戦士に選ばれたという事実だけでは、目の前の苦しみを消すことなどできない。
「ハヤト」
テオが隣に立つ。
「マルクスの言葉を全部背負うなよ」
「でも、間違ってはいない。俺には、まだ何もない」
「何もない人は、あんな顔で誰かを探さない」
テオは医療棟の方角を見た。
「知識や力が足りないなら、これから増やせばいい。今日すぐ全部できる必要はないだろ」
反対側では、エマが写真の端をそっと整えてくれた。
「今のあなたにできることは、事実を確かめること。そして、分からないことを分からないままにしないことよ」
俺は二人の顔を見た。
テオもエマも、俺なら必ず救えるとは言わなかった。簡単に大丈夫だとも言わなかった。
それでも、そばにいてくれる。
足りない俺を置き去りにせず、一緒に進もうとしてくれている。
俺は写真を握り直した。
紙を折らないように、今度は力を込めすぎずに。
自分に何ができるのかは、まだ分からない。医療棟にミナがいるのかさえ分からない。
それでも、分からないことを理由に立ち止まりたくなかった。
救えると信じ込むのではなく、救うために必要なものを一つずつ見つけていく。足りない知識があるなら学ぶ。力が足りないなら身につける。誰かの助けが必要なら、一人で抱え込まずに手を借りる。
そして、ミナがどこにいても、苦しんでいても、俺だけは諦めない。
渡り廊下を抜ける風の中で、俺は写真の向こうにいるかもしれないミナへ、届くはずのない言葉を静かに告げた。
「ミナ、マルクスがなんと言おうとお前は俺が絶対に助ける」
今話では、ハヤトがついにミナの行方に接近、「救いたい」気持ちと、「救えるのか」という葛藤に悩みます。今回もマルクスがハヤトに嫌がらせします。少しでもおもしろいと思われましたら評価、ブクマ、レビュー頂けますと泣いて喜びます。
十二月半ばの獅子寮は、夜が更けても共有スペースの灯りが消えなかった。窓に映る俺たちの向こうで、ルミナス市の光が白く滲んでいる。紅茶の香りが薄れた机には、開いた教材と、何度も消して書き直したノートが並んでいた。 テオはエマが答えを隠したページを見下ろし、鉛筆の先を止めた。「まず葉の状態を確かめる。それから、保存する場所を選ぶ」 エマが指を退ける。答えを照らし合わせたテオは、小さく息を吐いて丸をつけた。以前なら正解するたび騒いでいたのに、今はすぐ次の問いへ目を移している。「覚えたね。そこ、もう大丈夫」「エマの声つきで頭に入ってる」「試験中まで注意されたくないでしょ」 テオが笑い、机の端へ寄っていた彼女のカップを手元へ戻した。その自然な仕草に俺も口元を緩め、自分の教材に向き直る。最後まで残った付箋は二枚。首席を守りたいという気持ちを、今はこの一問を確かめることに集中させた。 試験期間は、思っていたより早く過ぎた。答案に向かうたび、三人で読み直した箇所が浮かぶ。最後の科目を終えてからも確認用のノートを鞄から出せないまま、俺たちは結果発表の日を迎えた。 学内の掲示画面には、人の輪ができていた。俺はテオとエマが隣にいるのを確かめ、一年の一覧を下から辿った。見慣れた名前を通り過ぎ、最上段で視線が止まる。 ハヤト・キサラギ。学年首席。 すぐ下には、二年への進級決定の文字もある。画面の白い光を見つめたまま、俺は鞄の持ち手を握り直した。嬉しい、と言葉にするより先に、ようやく机から立ち上がれたような安堵が広がる。眠気を追い払いながら解いた問題も、二人と飲んだ紅茶も、ちゃんとここにつながっていた。「……よし」 隣ではテオが袖口をつかみ、一覧の途中から目を動かせずにいる。俺は彼の名前を見つけ、画面を指した。「テオ、そこ。進級決定って」 テオが身を乗り出した。名前を読み、右側の表示を読み、もう一度名前へ戻る。やがて袖を握っていた指がほどけた。「俺も、二年になれるんだよな」「なれるわよ。わたしも一緒」 エマが自分の結果を示すと、テオは彼女の手を取った。勢いよく何か言いかけた口を閉じ、包んだ手を一度だけ揺らす。「ありがとな。何回も教えてくれて」「ちゃんと覚えたのはテオでしょ」 エマは照れたように画面へ顔を戻したが、その手は離さなかった。「わたしも、薬の
獅子寮の共用机には、冬の午後の日差しが斜めに差していた。カップから立つ柑橘の香りが、暖房の風に薄まっていく。俺は問題集の余白に小さく印をつけ、正解したはずの式をもう一度たどった。答えが合っていても、途中で迷った箇所は残したくない。四寮合同一年生総合試験の表紙をめくるたび、首席という二文字が頭をよぎる。「ここ、どうして順番が逆になるんだ?」 向かいでテオの鉛筆が止まった。エマは自分の教材に指を挟み、彼のノートをのぞき込む。「逆にしたんじゃなくて、こっちを先に確かめてるの。ほら、この条件」 細い指が、テオの見落とした一行をなぞった。彼は額にかかった髪を払い、消しゴムを動かす。紙を破りそうな勢いになると、エマがノートの端を押さえた。「ああ……じゃあ、さっきの問題も同じか?」「そう。気づいたなら、そっちも直しておこう」 叱る声を待っていたわけではないのに、その穏やかな応答に俺まで頬が緩んだ。テオもふざけず、前のページを戻って式を書き直している。「落第回避まで、あと何問?」「数える時間で一問解けるわ」「はいはい。研究責任者になる人は厳しいね」「なるために勉強してるの。わたしも、まだ分からないことばかりよ」 エマの教材には、光の病に関わる項目だけ違う色の付箋がついていた。自分の目標を口にしたあとも、彼女はテオの鉛筆が動き出すまでページを閉じない。肩が触れそうな距離で、二人が同じ式を目で追っている。「この二人、ずいぶん仲良くなったな」 紙の擦れる音に紛れるつもりで呟くと、エマが顔を上げた。「わたしたちの見物より勉強に集中して!」「してるって。ちょっと目を休めただけ」 慌てて問題集へ戻った俺の指先が、さっきと同じ行を探す。テオが笑いをこらえて鼻を鳴らし、エマも口元だけを緩めた。 一区切りつけて自室に戻るころには、窓の光が机の脚まで下がっていた。医療棟で二人と合流するまで、まだ少し時間がある。俺は保管していた封筒を取り出し、カードの角に指を添えた。 紙は薄いのに、なくなったときには、そこに書いた言葉まで取り戻せない気がした。見つかったと知らせたときのミナの声が耳に戻る。渡す前から、ずいぶん心配をかけてしまった。 引き出しの内側、手前の浅いくぼみに封筒を寝かせた。端が引っかからないよう指でならし、閉める直前にもう一度位置を確かめる。クリスマスに
ペン先が止まったまま、教材の余白に小さな染みが広がっていた。指を動かしかけても、上着の空のポケットが気にかかる。何度確かめても、ミナに渡すはずのカードの角は触れない。 獅子寮の学習室では、白い窓枠に銀の飾りが揺れていた。卓上のツリーが淡く瞬き、冷めかけた紅茶から甘い香りが立っている。パーティを待つこの部屋で、俺だけが何かを置き去りにしたように、同じ設問から進めずにいた。 向かいでエマが参考書を動かすと、テオは無言でノートを寄せた。腕が触れないほどの隙間が二人の間にある。普段なら気にも留めない距離が、今夜は妙に目についた。「ミナに渡すクリスマスカード、なくしたんだ」 口にすると、二人の手が止まった。「何でそんなこと黙ってたんだよ!」 テオが顔を上げた。思わず背筋が伸びたが、俺もペンを置いて彼に向き直った。「自分で見つけられると思った。でも、見つからない。二人にも手を貸してほしい」「最初から言えよ。ずっと隣にいたんだからさ」 強い声のあとで、テオは俺の教材へ目を落とした。解答欄の白さを見られた気がして、俺は小さくうなずいた。「マルクスは? ミナの検査結果を改ざんした奴だぞ。俺、蛇寮の近くを探ってくる」「気になる。でも、カードの件まであいつだと決まったわけじゃない」「分かってる。まず探す」 エマは端末に学内図を開き、俺のほうへ差し出した。「最後に確認したところから、順番に教えて。覚えていない部分は、そのままでいいから」 俺の答えに合わせ、通路や部屋に印がついていく。曖昧な記憶を無理に埋めようとすると、エマは指を止めて待ってくれた。「焦るわよね。大切なものだもの。でも、探す場所は整理できるわ」 頭の中で何度も繰り返していた道順が、画面の上では限られた範囲に収まった。なくしたことを考えるばかりで、探し方まで狭くなっていたのかもしれない。「ありがとう。俺は医療棟を確かめてくる。終わったら合流しよう」 医療棟の廊下は寮より少し涼しく、窓にはルミナス市の灯りが細かく映っていた。病室へ入ると、ミナが読んでいた本から顔を上げた。その笑顔に、手ぶらで来たことが急に申し訳なくなる。「渡すつもりのカードをなくしたんだ。この辺りも探していい?」「わたしへの?」 ミナは本に栞を挟み、ベッドから足を下ろした。「それなら、わたしも探す。椅子の下、奥まで
獅子寮の談話室には、湯気の立つ茶の匂いが漂っていた。白いテーブルに端末の青い光が映り、俺の手元で教材の影が薄く伸びている。窓の外では、校舎を結ぶ通路の飾りが夕暮れに輝き始めていた。そちらへ目をやりかけ、俺は指に触れる紙の端をめくった。 向かいのエマが示した箇所を、テオがペンで追う。さっきまで首をひねっていた彼は、三つの項目を囲むと、得意そうに顔を上げた。「これ、パーティの準備と同じ順番で覚えればいいんじゃないか? 場所を確認、必要なものを用意、それから動く。そうだ、当日の席なんだけどさ」 覚え方には感心したものの、最後のひと言で俺のペンも止まった。エマは苦笑し、教材の続きを指した。「席は休憩のときに決めましょう。今は、何を確認するのか答えて」 彼女の端末の脇には、服の色を書き留めた小さなメモがある。教材に挟まれかけたそれを丁寧に避ける様子からも、パーティを待ち遠しく思う気持ちが伝わってくる。だからこそ、今のうちに勉強を進めたいのだろう。俺も同じ気持ちで空欄に向き直った。 テオは二問続けて答え、間違えた箇所には印をつけた。ところが次の説明を読みかけたところで、また窓の飾りへ目を向ける。「あの色、エマの服にも合いそうだよな。俺も何かそろえたら――」 エマの指が、ページの端を押さえたまま動かなくなった。先ほどの笑みが消え、言葉の間に短い息が入る。「わたしも楽しみにしているわ。でも、二年生になったら本格的な医学生の訓練が始まるのよ。今より厳しくなるのに、集中できないたびに楽しい話へ逃げるつもり?」 テオは口を閉じた。ペンの先が紙から浮き、そのまましばらく戻らない。俺が声をかけるより先に、彼は椅子の背から身を起こした。「逃げてるって言い方はないだろ。ちゃんと考えて答えてるし、分からないところも聞いてる。少し話しただけで、何も考えてないみたいに言うなよ」 エマの眉が寄った。彼女が戻したいのは勉強の話で、テオが否定したいのは自分の取り組み方への決めつけなのだと思う。けれど、互いの顔を見据える二人には、そのずれを確かめる余裕が見えなかった。「その少しが何度も続くから、わ
獅子寮の共用ラウンジには、温めたミルクの甘い匂いが漂っていた。白い壁に照明が淡い金色を落とし、窓の向こうではルミナス市の明かりが重なっている。俺はマグカップを片手に、端末に表示したクリスマス・パーティの案内を眺めていた。開催日を指でなぞると、その数字の隣にミナの笑顔を置いてみたくなる。「ハヤト、さっきからそこばっかり見てるぞ。もう当日の服まで決めた?」 向かいのテオが身を乗り出した拍子に、隣のエマの袖に肘が触れた。彼はすぐに腕を引き、彼女の前へカップを寄せる。取っ手を受け取ったエマは、抗議する代わりに自分の膝に置いていた端末を少し傾け、テオにも画面が見えるようにした。「服はまだ。まずは、ミナと一緒に過ごしたいと思ってる」 口にしてみると、ぼんやり眺めていた日付が急に近くなった。会場に来られるかは、まだわからない。それでも、クリスマスに誰の隣にいたいかは決まっている。 テオは俺の画面をのぞき込むのをやめ、背もたれに肩を預けた。「いいな。俺もエマとゆっくり過ごしたい。いつもと違う格好で待ち合わせとかさ。同じ寮なのに、ちょっと遠くから来たふりして」 エマがカップの縁から目を上げた。呆れるかと思ったのに、彼女の唇は柔らかくほどけていた。「遠くから来たふりはいらないけれど、待ち合わせはしたいわ。着替えが終わるまで廊下で待たれるより、落ち着いて準備できるもの」 テオが早くも待つ場所を考え始める。その横で、エマは彼の袖に付いた小さな糸くずをつまみ取った。何でもない仕草なのに、二人の間だけ空気が温かく見えて、俺までカップの陰で口元を緩めた。 ラウンジの扉が開き、鹿寮のアキト先輩が顔を出したのは、そのときだった。俺たちを見つけると片手を上げ、空いている椅子の背に指を掛ける。「楽しそうだね。何の相談?」「クリスマスの話です。先輩、ちょうどよかった。光の護身術の練習も、一度――」「その相談より先に、クリスマスの重要事項を伝えたいな」 先輩は素早く椅子を引き、俺の端末に視線を落とした。その切り替えの鮮やかさにテオが吹き出す。俺は持ち上げかけた手をカップへ戻し、先輩に続きを促した。「そんなに構えなくても、まだ日程も言ってませんよ」「日程が決まる前が大事なんだよ。ハヤトに見てもらうとなったら、休憩まできっちり管理されそうだからね」 先輩は冗談めかして肩をすく
「ちょっとあんたたち、いつまで抱き合ってるのよ!」 甲高い声が響いても、腕をほどくには少し時間がかかった。胸元に寄せられたミナの身体が、呼吸に合わせてわずかに動く。病衣越しのぬくもりも、襟に触れる柔らかな吐息も、離れた途端に失われそうで、指先が布をつかんでいた。 ミナに袖を引かれ、ようやく力を緩める。覗き込んだ顔には疲れが残っていたけれど、俺を見上げる目は開いていた。背中に手を添えて枕へ戻すと、髪が白いカバーに広がる。くぼんだ寝具から、二人分の温かさがゆっくり逃げていった。 その向こうで星が揺れた。ベッド脇に置いた杖が、誰にも支えられず浮き上がっている。先ほど聞きそびれた声の主が、今度こそこちらを向いていた。「杖が喋った!」 テオがエマの肩から手を離し、指を突き出した。涙の跡が残る顔を見上げる間に、杖が一直線に飛ぶ。彼の上腕を軽く叩き、かばおうとした腕の隙間から反対の肩も小突いた。痛いというより、どちらを守ればいいのかわからないようで、テオの肘が忙しく上がったり下がったりする。「あんた、指をささないでよ!」 声の大きさでは杖も負けていない。テオがエマの後ろへ身を寄せると、彼女は助けようとして伸ばした手を途中で止め、唇を結んだ。その肩の震えが目に入り、俺まで口元を押さえる。白い壁に映る二人と一本の影が、妙にせわしない。「杖さん、かわいい」 隣から届いたかすかな声に、杖の動きが止まった。テオへ向けていた柄を下げ、今度はそっと空気を滑って戻ってくる。ミナが布団から指を出すと、その手に触れる寸前で速度を落とした。「あなた、見る目があるじゃない」 先ほどの剣幕はどこへ行ったのか。甘い声とともに星が傾き、ミナの指の下へ収まる。掛け布団に淡い光がにじみ、指が動くたびに小さな影も揺れた。俺の袖をつかむことしかできなかった手が、今は何かをかわいがっている。それを眺めているうち、つられて指先の力が抜けた。 ミナの喉から小さな笑いがこぼれた。長くは続かず、すぐ枕に頬を預けたけれど、その口元にはまだ笑みがある。寝具を直すふりで少し身をかがめ、俺も同じ高さから星を見た。「こんなミーハーに作ったつもりじゃなかったんだけど」 アキト先輩が申し訳なさそうに手を伸ばし、杖を取り上げるか迷ったように引っ込めた。説明を探す口が一度開いて、結局そのまま閉じる。作った本人まで遠慮